欲望のタイポロジー

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欲望のタイポロジー

欲望のタイポロジー

アイデンティティ
 アニタ・イェンセンの芸術において、日本文化は、西洋に見られ、意味づけされる対象であり、また同時に、自らの意志で意味づけする主体でもある。西洋においても日本においても、世界は解釈され、自らの階層的な意味構造の中に組み込まれていく。イェンセンの作品において日本は、西洋の芸術家たちが自己を発見していった異境の地である。そしてまた、西洋との接触により急速に変革をとげ、新しいアイデンティティを模索して常に変容しつつある、古き伝統の地でもある。

他者
 「他者」の視線は、突然向きを変え、近づき、見る者の目をじっと見つめ返す。自己とは、なんと捉えがたいものか。最も身近なはずの自己というものの中に、全く未知なる他者が潜んでいるという逆説。東洋の女性のなめらかな形の目は、渇望と不安に満ちて、見る者に迫ってくる。そして、自己の奥深く潜んでいた恐怖と「他者」をえぐり出してしまうのだ。カオスに屈したいという衝動のなすがままに、不可解な欲望の虜となって、見知らぬ他者の差し出す手にただすがりたくなる。見たい、見られたい、という欲望は身体をばらばらに引き裂いてしまう。異邦人の全能なる視線によって引き裂かれ、傷つくのか、それとも恍惚となるのか。その視線にはどんな苦痛と快楽が隠れているのか。頭の先から足の先まで、東西南北世界の隅々まで、視線は留まることなく嘗め尽くすように動いていく。そして名前をつけ、定義し、紙の上に記録するのだ。

金色
イェンセンは90年代後半に何回か日本を訪れている。その旅から生まれた作品にあふれる金色は、飢えを表すものだ。金の本質は野蛮であり、金を欲する文明は、その行為において野蛮なるものを欲しているのだ。
20世紀の後半になって近代芸術の神話が崩れ、西洋美術史における芸術家の役割が見直され始めた。そして、芸術家が植民地主義的利益の追求にどうかかわったか考察されるようになった。金色に輝く財宝とそれがもたらす権力を夢見て、西洋の探検家は世界中にその足跡を残した。陸も海も探検され、土着の民は、西洋人が読むための歴史書に記されるだけのものとなった。
 探検家に続いたのは宣教師、科学者、そして写真という当時最新の技術を携えた芸術家である。しかし、描くということは、単に描かれる対象へ働きかけるだけでなく、描く主体自身にも作用を及ぼすことである。写真は、対象と主体の双方を、ビジュアルな意味体系の中へと永遠に閉じ込めてしまう。東洋と西洋はいわば双子として生まれつつ、対極に位置している。
イェンセンの作品の中には、カメラという技術による植民地主義の遺産が、潜んでいる。版画も写真も、西洋が他国を支配するのに用いた手段であった。Stone Garden〔石庭〕において作品の半分を占めているのは、フランス人のウーグ・クラフトが1880年代に撮影した日本人の庭師や車夫の姿である。これらの貴重な歴史の記録写真の下には、フィンランドの岩の単純でくっきりとした姿が配置されている。歴史的文脈からも自然の環境からも切り離された、個としてのフィンランド的なものと、神秘の伝統、文化的記号、階層性のベールをまとった日本を並べることで、この作品群はそのような既成概念そのものを問い直しているのである。
クラフトは、溌剌とした日本人の労働者たちにピントをあわせた。見る者である我々も、この撮影者の視点をとるであろう。その一方でクラフト自身を写した写真の前で、見る者としての我々の立場は妥協することを迫られることにもなる。半裸の男たちがかつぐ駕籠に座るクラフトは、白人の特権を象徴しているように見える。が、この写真の構図は、見方によっては、クラフトを、誇り高い狩人たちによって生け捕りにされた獲物のようにも見せてしまうのだ。写真の貝殻のように、生まれ育った環境から切り離され、クラフト自身も窃視の快楽の対象となって、「我々」と「彼ら」の間を落ち着きなく揺れ動く。
イェンセンの作品は、この意味の揺れ動きそのものに価値があると訴えているかのようだ。全く異質なる他者同士の出会い。そこには相互理解のための共通の言語が欠けている。おそらく、人類の特質の中で唯一普遍のものは、全てに確固たる意味づけをし説明しつくしたいという欲求であろう。金に対してと同じような、意味に対する飢えといってもよい。この故に、他者は、「像」として繰り返して飼いならされ、フェティシズムの対象となって、自己を脅かす欠如を隠すのである。きわどい均衡を保ちつつ、植民する者とされる者は、同じ身体に共存しうるのだ。


背景の黒色が映画のアイドルスターの端正な顔を浮かび上がらせる。その顔は、それを見る者が自己を投影させる、いわば自己耽溺の祭壇への捧げ物なのだ。西洋の古典映画の場合と同様、20世紀の日本の映画やテレビ番組では、観客は、映像の中にいる「女性らしさの権化」としての女優に同化するよう期待されていた。「女性らしさ」の概念は、「男性らしさ」の陰画として、文化や社会の中でジェンダーに関わる意味づけをされて再生産されていく。Nature in the Eye of the Beholder〔見る者の目にうつった自然〕と名付けられた作品群の、中村玉緒のブロマイド写真は、西洋と日本において、この伝統的なジェンダーの記号体系を如実に表すことになるものである。カメラと理想の自己。両者の間の恋愛関係は、映画スターの身体として具現する。
イェンセンは、女優の顔を繊細なタッチで扱っており、単純な性的対象としてしまうことを免れている。この女優の身体の中で、社会階層、ジェンダーのあり方、女性としてのアイデンティティが交じり合って、芸者とか、無邪気な娘とかいう、日本女性のステレオタイプは、輪郭を失う。しかし、いかにそのしぐさを理解しようとしても、その意味は宙にういたままで、ハリウッド的な解釈を許さない。白人女性には、西洋の意味体系の中で「自然」における地位が与えられている。しかし、それに該当する地位をもたない東洋の女優の場合、彼女の欲望が何に向けられ、何を意味するのかは、西洋の観客にはあいまいなままだ。東洋の女性が常に「謎」であるのも、同じ理由によっている。
日本の女優に対峙させられて不吉なイメージを見せているのは、アーネスト・ヘッケルによる動植物の形態リトグラフである。科学者・探検家であったヘッケルは、ダーウィニズムに基づいて生物を体系的に整理しようした。ポルノと言ってよいような、細部にわたる綿密な描写。それは女性の顔を思い起こさせる、グロテスクな装飾となっている。つまり、女性も自���も、誘惑的で危険な「他者」というカテゴリーにまとめられてしまうのだ。
しかし、女性の顔と自然は横に並べられることで、全く別の絵画の伝統を思い出させてもくれる。ヨーロッパの近代絵画と日本の春画である。
18世紀に一般に広く享受されていた春画は男女の性器を強調して描くことで、性を生命力の象徴として謳歌するものであった。しかしビクトリア朝のヨーロッパに伝えられると、春画は、大量に印刷され消費される娯楽から、こっそりと見るべきポルノへと変容してしまう。西洋の芸術家や作家は、自分たちの時代の芸術的・倫理的価値観で春画を解釈したのである。この西洋の倫理観の影響を受けて、春画は日本においても禁止されるものになった。近代絵画においてエキゾチックな果物や花が性器を表現したように、性の表現は隠喩の形に限られることになった。
デビッド・クローネンバーグ監督の映画『エム・バタフライ』では、女装してフランス人外交官に近づき、その愛人となった中国人京劇男優が、「男だけが完璧な女になれる」と言うセリフがある。一方、イェンセンのCasting by Nature〔自然の鋳型〕において、船長の制服に身をつつみ、遠くを見つめる美しい女優は、そのセリフに異を唱えるものだ。宝塚歌劇の男役を思い起こさせるこの女性によって具現されているのは、「文化」と「自然」という対立概念の否定である。熱狂的な女性ファンが男装の女優を見る快楽は、ヘテロセクシュアルの男性の欲望や欲求とは異なるものである。
男性優位の日本社会において、宝塚歌劇という両性具有のファンタジーは、女性観客が見る主体としての力を手にできる場を提供し、「女性の視線」を生み出している。しかしCasting by Natureは単に性差にのみ基づいた安易な解釈を提供するものではない。フェティシズム、窃視、ナルシズム的な自己投影がこれらの作品の特徴となっているのは確かだが、それらが創り出している快楽は、自ら問い、自己増殖していく自発的な女性の欲望であり、同性愛や他人の欲望の対象となることの快楽といったセクシュアリティーの概念に置きかえられてはならない。
女性アイドルスターの顔を浮かび上がらせる同じ黒色の中から、完璧な美しさをたたえて、貝殻が現れる。内部に子宮のような空間をはぐくみながら、銀河のように美しく渦を巻いて伸びていく。この種の女性の体を連想するお決まりの発想は、「自然に神秘はない」という隠されるべき真実を反って明らかにしてしまう。神秘は見る者の目の中にしか存在しない。その網膜の上でのみ、生体の奇妙な器官が発達し、歯、耳、鱗が形成されていくのだ。人間性についての語りはこのように生まれる。その語りは、常にジェンダー化され、自己の文化を投影するものなのだ。


 赤は、秘められた快楽、肉欲、逸脱の色である。赤は、知識と権力をめぐる戦いの場で、セクシュアリティと倫理の名のもとに流される血の色を表す。舞台の上では、日常において禁じられた行為さえも演じられる。芸術家はその舞台において、日常と非日常の境界に存在している。演じることは、非日常なる世界との交感を意味するのだ。そして境界にある者として、役者は崇められると同時に卑しめれることにもなる。日本において女優は、赤い太陽の神アマテラスの具現として尊ばれ、同時に、卑しむべき見世物として蔑まれる。善と悪の戦いにはこの生きた素材が不可欠なのだ。
Collector Unknown〔収集者不明〕においては、非西洋のエキゾチックな物を収集し展示する行為が内包する欲望が呼び起こされ、脱構築される。これらの収集物は、そのもの自体については何も語らず、代わりに「匿名の」収集家の世界観と財産を表している。
赤に縁取られ、ビクトリア朝時代を思わせるモデルが、貝殻、擦り切れた漢和辞書、アフリカの鼻輪などの珍品の横でゆったりと官能的ポーズをとる。これは、文化遺産を展示するという真面目な営みに対する風刺だ。
これらのヌード写真は日本人によって編集された本『エヴァ − ヨーロッパ・クラシックヌード』(講談社1998年)に収められたものである。つまり、「女性の裸体は、好奇心をそそり、不道徳で淫らなものだ。」という西洋人の見方で、日本人も女性の裸体を見るようになったことを示すものであろう。進化論的発想では、発達の頂点に西洋の個人主義的自己が置かれる。そしてその自己は理性的なものであり、西洋から見た「他者」はすべて非理性的なものと解釈される。さらに、自己の中の禁じられた部分、つまり非理性的な部分は、その「他者」の中に投影される。「他者」たる女性の体は、きちんと統制されなければ、いつ理性を失い暴れだすかもしれないという恐れを掻き立てる。それゆえに、女性の体は細部にわたって整えられてカメラの前に差し出されなければならないのだ。裸体の女性は、死んだ自然、つまり静物 nature morteとなって貝殻や入れ歯などのものといっしょに、人間的なものと非人間的なものとの間を揺れ動く。

イェンセンの作品に示されているように、文化を収集することが、世界は調和の中にあって意義に満ちたものであるという感覚を与えてくれないとすれば、他者の視線に対して我々はどのように対応すればいいのだろう。イェンセンの作品は、それに対する安易な解答を与える代わりに、芸術において他者を描くことがもつ葛藤を顕わにしてくれる。イェンセンは「静止した像」と「語り」という二つの手段を用いて、芸術家の視線がつくりあげる真実という幻想に挑戦するのだ。Kimono for Daddy〔パパに贈る着物〕(2000)はその美しい実例である。大きな絵の中に彼女自身の父親の写真が組み込まれ、自らの家族史と他者というテーマが語られる。金色、黒、赤を用い、着物の形のようにT字型に並べられた作品は、作者自身、そして日本女性の体を連想させている。

アスタ・クーシネン
版画家
ヘルシンキ大学レンバル研究所研究員

植村友香子
ヘルシンキ大学アジア・アフリカ言語文化研究科
日本語講師

( 2006年2月13日)

参考文献
Bloom, Lisa, ed. With Other Eyes: Looking at Race and Gender in Visual Culture.
Minneapolis and London: University of Minnesota Press, 1999
Clifford, James. The Predicament of Culture: Twentieth Century Ethnography, Literature and Art.
London and Cambridge, MA: Harvard University Press, 1988
Konttinen, Annamari & Jalagin, Seija, ed. Japanilainen nainen kuvissa ja kuvien takana.
Tampere: Suomen Japanin Instituutti, Vastapaino, 2004
de Lauretis, Teresa. Technologies of Gender: Essays on Theory, Film and Fiction.
Bloomington: Indiana University Press, 1987