人生というドラマが明かされる瞬間

Byadmin

人生というドラマが明かされる瞬間

人生というドラマが明かされる瞬間

GLIMPSES OF THE THEATRE OF LIFE

アニタ・イエンセンの作品には、人生と云う劇場が映っています。その舞台上に時間が流れ、万物が萎み崩れる姿と人生の儚さが表現されていて、日本人の多様な美意識が思い浮かびます。イエンセンは日本の文化と美術の本質をうまくとらえ、それを新鮮な視点で我々に表現しています。

イエンセンの作品には、日本の伝統的な冷え枯れの美が繰り返し表現されています。優美とグロテスクの間に生まれる奇妙な緊張感が作品に注ぎ込まれていることは、非常に興味深い特徴です。

作品には「異質」と「親しい」と言う他のコントラストもあります。極端でありながら、その二つの統一性も強調されています。日本的な考え方に、フィンランド人の特有な思考と表現は絡み合っています。作品は別世界への入口となり、時を超える力を持っています。イエンセンの写真作品を観る人々は、その秘めたる内なる世界を覗くことができます。

劇場

日本社会では、人々は役を演じています。人間関係の「内」と「外」は、はっきり分かれていて、周りの人間関係によって人々の態度とか話し方は変わります。家に居る時、趣味の仲間と会う時、そして仕事場で、それぞれ違う表向きを取っています。それは日本の縦の社会のしきたり通りのことで、日本人にとって無意識で自然な行為です。自分の社会的な立場をわきまえることは重要で、グループの中の相互関係を強く結びつくことになります。

現代日本で流行する様々な風習の中にも、役を演じる流行があります。その典型的な例は、漫画とアニメの世界を反影する「コスプレ」です。おしゃれな「ギャル」ファションもファンタジーな役になると思われます。衣装を替えると、自分のアイデンテイティーが変わります。そして、その夢想の中、日常生活の厳しさから解放されます。

さらに、日本に滞在する外国人も特有な役(役柄)があります。それは、自身を日本社会に同化するために必要不可欠なことです。何回も来日して、外国人として日本の生活を見てきたアニタ・イエンセンは、作品に東洋と西洋の対比と同一性自然と表現しています。

イエンセンのグラフィック作品は、日本の伝統的な芸能に驚くほど結びついているようです。イエンセンの作品も、伝統芸能もある特定の時代に繋がっています。作品の中の人物は、やはり役を演じています。歌舞伎俳優でも、美人でも、一般家庭の写真アルバムから切り取られたスナップショットでさえも。画面の構成に、歌舞伎座の幕を思い浮かばせる色彩感覚が利用されているせいで、さらに劇場らしい作品に見えてきます。

イエンセンの作品を構成する「人生というドラマ」は、古い写真に込めた「現実」と時空を超えた別世界の組み合わせです。それは、日本の能舞台の構成に似ている様にも思われます。能劇場の舞台上は、別世界(神聖)であり、聴衆席は現実、この世です。その境には、小さな松の木か榊が植えられています。イエンセンの作品には、現実と夢想の間に境目はありません。その二つは、同時に画面に存在して、お互いを支え合っています。このような表現は日本美術の評論文の中、「日本的なリアルズム(現実性)」と言われています。それは、作品に描かれた大自然の美しさはそのまま真似した現実ではなく、画家の意図と個人的な感動が含む作品の様子です。イエンセンの作品には、日本的なリアリズムが見られます。そして、彼女の作品は時間の流れを感じさせる隠喩にもなり、鑑賞者は心を和ませることが出来ます。
作品には「自然」と「おもしろい」と言う日本美学の特性も表現されています。「自然」とは、ありのままのこと、個人の意識的な行為と振る舞いを示します。それは、花盛りの生花は、枯れ始める時に無常観が感じられる有様です。自然の成り行きに物事を任せるのは、人間の自由な精神の手助けになります。

日本美学の中、もっとも賞賛される美の特徴は「面白い」ということです。その概念は、究極的な境地を示す、新鮮で非凡な創造力を表しています。イエンセンの作品の美の趣は、異なる要素の組み合せにもあります。浜辺に見つけた貝殻や枯れた花、解剖図の一面でも個々に見せると単なる自然の一部に見えますが、組み合わせることで創意に富んだ芸術作品に変化します。

能楽を大成した作家、世阿弥元清 (1343–1463) は、「おもしろい」という美の風体をよく自分の作品に織り込んで表現しました。彼は、観客に感動を与える力を「まことの花」として表現します。「おもしろい」とは、衝撃的であるより、趣ある驚きをよび起こす、静かな感動のことです。

デフォルメ

自然のさびた風体と美意識的な「おもしろい」とは、デフォルメに近い美の概念です。デフォルメ(変形)は、日本伝統芸能界にもイエンセンの作品にも目立つテーマです。能の戯曲によくあるシーンは、人間に化けた霊は自分の正体を最後に暴きます。その正体は多くの場合、女性の怨霊です。そして、物語の終わりに彼女の魂は念仏によって救われます。

演目の例として「松風」と言う能楽が取り上げましょう。物語のなか、諸国を旅する僧が須磨の浦を訪れて、一軒の塩屋に宿をとろうとします。そこに、若く美しい女がふたり、汐汲車を引いて帰ってきます。僧はふたりに一夜の宿を乞い、中に入って語り合います。すると女たちは行平から寵愛を受けた松風、村雨の亡霊だと明かして、行平の思い出と彼の死で終わった恋を語ります。やがて夜が明けるころ、松風は妄執に悩む身の供養を僧に頼み、ふたりは姿を消します。

もう一つの有名な演目は、歌舞伎戯曲「娘の道成寺」です。若い娘は切ない恋をして、自分を裏切った男性を追っていきます。最後のシーンでは、その男性は危ないと感じ、梵鐘の中に身を隠します。そこで、おこり狂った娘は毒ヘビに変身して、鐘の中に忍ぶことができて、悔やみをはらします。

日本の民話の中にもお化けのお話が数多くあります。「雪女」や、狐に化けた献身的な女房の話もあります。しかし、恐ろしい雪女に比べて、狐姿の女性は理知を働かす賢い者で、怖いと云うイメージはありません。日本人にとって狐は、様々な不思議な力と愛情の持ち主��す。その上、神道信仰で狐は神々の使者、稲荷でもあります。現代日本で、漫画の中に昔話を思い出させる変身物語は存在しています。漫画の女子主人公は、普通な少女からスーパーヒーローに変身したり、悪霊のような姿になって魔力を使ったりしています。

アニタ・イエンセンの作品には、若い美人に自然界の枯れ果てた物体は隣隣配置されています。人生の儚さと時間の経過を画面上で具体的に感じさせます。それは、イエンセンが生み出した、一コマの変身物語と言えるでしょう。

グロテスク

日本美術と文芸に見られるグロテスク(奇妙)のルーツを探ると、11世紀に活躍した鳥羽僧正の墨絵や同時代の地獄草紙までさかのぼれます。地獄草紙の絵巻物では、人間はバラバラに引き裂けられて、血だらけで恐怖の場面が目前に広がります。現代漫画にも残酷なシーンはよく見られます。しかし、それは日本人の心境ではありません。漫画などに描かれたグロテスクは、西洋人に分かりづらいですが、日本人にとってその意味は、社会の規則と日常生活の退屈さから脱出するエンターテーメントだけです。

イエンセンは「グロテスク」を取り入れた作品の代表は、Dream Diary of Madame Pavlova(パブロヴァ婦人の夢日記)とEvolution of Emotions(感情の進化)という二つのシリーズです。両方の下地となる写真は、古い医学書でみつけた身体異物と病気を原因した体の異変のイラストです。重苦しい、非常に不愉快な挿絵ですが、同時に奇妙な美しさをもたらしています。この興味深い美と醜さの組み合わせは、イエンセンの作品の中に在り、同様に日本文化の中にも感じ取れます。その極端な対比は実に魅力的な効果が表現されています。

イエンセンの作品と歌舞伎の世界に比べてみると、「夏祭」という演目が思い浮かびます。その中に、美は醜さと同時に舞台上で表現されて、衝撃的な効果を与えます。殺人者を演じる俳優は殺人の間、十三回見得を切る背景には静かな桜吹雪になっています。

残酷さと非人間的なグロテスクは、日本の美術の単なる一面で、総合的なコンテクストに味わいを付けることだけだと考えていただきたい。日本美術と科学は、その周辺から物事の核に迫っていく特性があります。「夏祭」の殺人者も、スローモーションでゆっくり相手を殺します。それぞれの見得は、現実から離れているしぐさなので、ひどい行為に距離感があり、様式的な表現に置き換えているから楽に鑑賞できます。

アニタ・イエンセンの全グラフィク作品を判断すると、その全てに自然界とその中の変化が表現されています。時間の流れによって生まれる無常は作品の主なテーマです。画家はグロテスクな現象を上手に画面に描きながら、作品に特殊な美を封じ込めています。

イエンセンの作品の美

アニタ・イエンセンは日本美術の理念を多用して、完成度の高い作品を制作しています。作品に新鮮な驚きや滑稽なことも組み入れてあり、無比の表現力を有しています。日本の美術にも、イエンセンの芸術作品にも対極性の調和が見られます。そして、その効果で、画面に配置された要素の間に趣のあるハーモニーが生まれています。

イエンセンの作品にはデフォルメは強調されています。それは、自然界のナチュラルな成り行きとして見せかけていますが、背景には画家の意識的な意匠が込まれています。枯れた風体は時間の流れの象徴となり、日本の無常観を感じさせます。「人生は無常である」というのは、禅宗の根本的な教え方です。久松真一の本「禅と美術」の中に無常の概念は詳しく取り上げられています。1418年、世阿弥の著した「花伝書」には、熟達した俳優の姿を「華」と呼びます。その華は、時代と共に姿を変えることにもかかわらず、いつもすばらしいものだと伝えています。

イエンセンが創造した人生劇に「哀れ(もののあわれ)」も潜んでいます。「哀れ」という言葉を英語にすると、悲惨なイメージがわいてきます。しかし、日本人にとって「哀れ」の解釈はそれより複雑であり、もっと広い意味を持っています。日本人の「哀れ」は、大きい感動を与える瞬間、人生の中の圧倒的な一瞬を示す言葉だと思われます。

美学者の中川重麗によって、日本で醜さと悲惨の魅力は認められます。イエンセンはそれと似た観念を持ちながら、作品に醜さと優雅を両方とも添えます。そして、彼女が構成した画面の精緻な出来栄えは特に印象深いものです。

イエンセンの作品には豊かな個性がある上、特殊なエロチックやユーモアも秘められています。それを日本美学の「イキ」だと云ってもいいのでしょう。作品の官能的な様相は、イエンセンの色彩感覚によるのでしょう。黒色が多く使われているので、渋い質感になります。黒色は、薄暗い部屋のなぞめいた雰囲気をかもしだして、日本人の陰影に対する好みと、たそがれの瞬間への憧れを伝えます。谷崎潤一郎の随筆「陰影礼讃」には、薄暗の美がみごとに描写されて、イエンセンの作品にもその美のヒントが込められています。

日本の伝統美術において金(金泊)はかかせない素材です。それは工芸品と芸術作品に贅沢な風雅を与えます。そして、金色は浄土の光の象徴でもあります。イエンセンの作品には、黒と金色の他、赤と緑がよく使われています。赤は幸福を現す色で、緑は富と繁栄の兆しを表す色といえます。

もう一つイエンセンの作品によく見られる要素を取り上げましょう。それは鏡、あるいは拡大鏡です。画像だけではなくて、作品のタイトルにもよく「鏡」は使われています。例えば「花鏡」シリーズの場合です。同じ作品題名は能楽の元祖、世阿弥は15世紀に随筆した本の中にもあります。世阿弥は俳優の表現力や神秘的な美について書いています。

日本文化において鏡は重要で貴重な用具です。その歴史も長く、物としてすでに古事記に登場しています。世阿弥の解釈によって、天照大神の神話には「面白い」という言葉の語源があります。天照大神は洞窟から顔を出したとたん、外で待っていた神々の顔面は強い光で照らされて、顔色は真っ白になりました。それは「面」「白」の始まりです。鏡は日本の天皇の三種の神器の一つでもあります。鏡の他、剣と玉もその宝物にあたります。

アニタ・イエンセンの作品は、テーブルの上に開いてある日記のような物です。あるいは、劇場の舞台のように作品は我々の目の前に広がります。しかし、作品を鑑賞する時の気持ちは、カーテンをちらりと開いた一瞬です。イエンセンは絵のモチーフとテーマを意図的に見易く出していますが、私たち観客は、その作品に込めた深い意味をゆっくり洞察するべきだと思います。


MINNA EVÄSOJA 
ミンナ・エヴァスオヤ 博士
ヘルシンキ大学、美学 特任教授
日本文化の研究家、作家